「魏志倭人伝、考古学、記紀神話から読み解く邪馬台国時代の年代論』(内野勝弘)

 邪馬台国の解明は、邪馬台国時代・数十年に焦点を絞るだけでなく、「日本人の起源」「邪馬台国の起源」「大和朝廷の起源」を俯瞰的に捉えれば見えないものも見えてくる。

  ホモサピエンスのアジアへの道のりは、アフリカから出発し「西から東へ」東の果て日本列島への流れであり弥生時代、邪馬台国時代、大和朝廷時代の歴史は「大陸から九州へ」「九州から大和へ」「大和から全国へ」である。

  大きな流れを「各時代を超えて」俯瞰してみると邪馬台国は北部九州にあり、その一集団が大和に東遷し大和朝廷の礎をつくった。

 

内野 7つの仮説

 

 ① 倭国大乱の原因は181年・ニュージーランドのタウポ火山大噴火により世界的気候変動が起き、干ばつ、飢饉から黄巾の乱勃発、黄巾の乱で後漢王朝の衰退し、九州内の奴国連合と邪馬台国連合の争乱になり邪馬台国連合が勝利した。

② 卑弥呼時代はヒメヒコ統治、神武天皇は邪馬台国傍系、神武は本流ではない、邪馬台国傍系で、大和へ東征。

③ 卑弥呼の年齢を推理する。 通説の180年15歳で共立248年没83歳となり長寿すぎる(弟王も同年代)倭国の大乱が終結した210年15歳共立 魏へ使節時44歳 死は247~248年頃53歳となる。

④ 長里・短里説は太守弓遵(きゅうじゅん)と梯儁(ていしゅん)の司馬懿への忖度 洛陽から大月氏国16000里、洛陽から邪馬台国まで17000里と距離と人口は実態より5倍引き延ばした。

⑤ ニニギ天孫降臨物語は狗奴国の戦いが神話化された。 不毛の地、南薩摩へ降臨の疑問である。延岡経由の狗奴国への戦略的側面攻撃説。降臨した延岡は古くは「縣」(吾田)愛宕山は、古くは「笠沙山(かささやま)」と呼ばれていた。 

⑥ 高天原神話、出雲神話、日向神話は順番完結ではない 同時並行型神話で、出雲の国譲りは台与の時代古事記神話は、各物語完結型(編年体)でなくパラレル物語進行型(紀伝体)で書かれている。

⑦ 記紀の父子継承率100%は疑問 古代天皇の父子継承率は10%前後、(13代までの父子継承は垂仁天皇、成務天皇)