第81回 2019年8月9日 

 

朝鮮半島の前方後円墳について (末永時和)

 

倭人は江南との関係が深く、鵜飼、弓、家などが南方的である。稲作の伝搬でも稲のDNAなどから江南直接伝来説が有力視されている。墳丘墓でも戦国時代初期の呉や越の土墩墓(どとんぼ)と共通性がある。更に、倭人は呉の太伯の末裔であると中国につたえていたことが分かっている。

弥生時代の朝鮮半島に倭人が居たことが、『魏志韓伝』の記述からも想定できる。このように江南に関係が深い倭人が朝鮮半島にも住んでおり、倭は朝鮮半島に既得権を持っていたことが考えられる。その裏付けが、宋など中国が倭王武など倭の五王に与えた官職でも分かる。

朝鮮半島の前方後円墳の研究は戦前からあったが、1983年に韓国の姜仁求(かんいんぐ)氏が韓国の18ヵ所の墳墓を示し、中国から海路によって漢江や栄山江流域に伝わり、洛東江で発展して、日本に伝わった前方後円墳とした。しかしその後の測量調査で、これらは日本より新しく、多くのものが前方後円墳ではないとされた。その結果、朝鮮半島の前方後円墳は栄山江付近の10数基のみとなった。この栄山江地域は慕韓(ぼかん)と呼ばれ、旧馬韓で百済の領土ではなかった。だから、大和朝廷から派遣された豪族が任那地域を拡大するために治めていたのではないか。そして、この豪族たちが前方後円墳を築いたのではないか。その後、継体天皇時代に大伴金村によって百済に割譲され、前方後円墳も消滅した。